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サチェル・ペイジ 元プロ野球選手 メジャーリーグ時代 1947年、ブルックリン・ドジャースがジャッキー・ロビンソンと契約してメジャーリーグの「カラーライン」が破られた時、ペイジは40歳に達していた。「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた、その日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった」と語っている。しかし翌1948年、シーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団し、42歳の史上最高齢新人投手として6勝(1敗、防御率2.48)をあげ、リーグ優勝に貢献した。メジャー通算成績は28勝31敗、防御率3.29だが1952年には46歳で12勝(10敗)を挙げており、1952年・1953年には連続してMLBオールスターゲームにも出場している。1965年、カンザスシティ・アスレチックスと1試合だけの契約を結び、メジャー最後の登板を果たした(先発して3回を投げ無失点で勝敗はつかず)。この時ペイジの年齢は59歳だった。しかし生年に異説もあり、実際には60歳を超えていたのではないかとの説もある。いずれにしても現在でも最高齢登板記録なのは事実である。この時はダグアウトにペイジ専用のロッキンチェアが用意され、ペイジがマウンドを去ると観客から惜しみない拍手とともに「私を野球に連れてって」の歌声がこだました。1971年、ニグロリーグ特別委員会選出により、野球殿堂入り。 長らく日本では無名であり、知られる際も「史上最高齢登板投手」として認識されるにとどまっていたが、佐山和夫による伝記「史上最高の投手はだれか」によってその知名度が広まった。また伊良部秀輝は現役引退後のインタビューで、中学生の時にペイジの追悼特番を見て衝撃を受けた事がメジャーリーグを意識するきっかけになったと発言しており、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団してから最初の6年間はペイジのように投げたいと思っていたという。